葛城山とは、和泉山脈、金剛山脈の総称で、紀伊国、和泉国、大和国、河内国の四ヶ国の国境を西から東へ、そして北へとL字型となった峯々です。総延長二十八里(112km)に及び、西は加太、友ヶ島から北端は大和川上流亀ヶ瀬に至ります。役行者はこの場所に、法華経二十八品の一品あてを各所に埋納して経塚を築造し、入峯修行者のため二十八ヶ所の参籠行場を作りました。これが「葛城二十八宿」です。犬鳴山には、その第八品の受記品を燈明ヶ岳の頂上に納経されており、現在経塚大権現として篤く信仰されています。
江戸時代、大和大峰山の七十五靡修行を「金剛界修行」葛城山脈の二十八宿修行を「胎蔵界修行」とし、それぞれが峰山伏には必修の修行場とされていました。この頃、葛城での修行は、天台系の聖護院を中心とする本山派と、真言宗の醍醐寺三宝院を中心とする当山派がそれぞれ行いました。当山派は大峯修行の後に葛城に入峰していましたが、聖護院を中心とする本山派は、法華の峯として葛城修行を重視し、大峯修行とは別に集団で葛城に入峰しました。

葛城二十八宿での修行体系と伝承は、明治時代初頭まで脈々と受け継がれていましたが、明治政府の方策(神仏分離・廃仏毀釈・修験道廃止令など)により修験道とともに廃止に追い込まれていきました。しかし修験の火は消えず、昭和の時代に入る頃に、七宝滝寺八十六世管長の東條仁進猊下(平成九年御入定)と八十七世管長東條仁哲猊下並びに聖護院門跡の宮城泰年執事長様、そして近畿山岳愛好会の祖、故 仲西政一郎様らとそれぞれの関係者の方々の気の遠くなるようなフィールドワークと調査研究の結果、遠い昔より言い伝えられてきた葛城二十八宿経塚が再び世に確認されることとなりました。

幻とまでいわれる「葛城二十八宿」に代表される「葛城行所」の歴史。七宝滝寺は、この葛城二十八宿の奥の院として、元山上と称されてきました。元山上と称する地は他の行場にも見られますが、当山が元山上を名乗るのは「役行者が大峰山開山に先立つこと六年前の草創なり」という故実に由っています。七宝滝寺では、この修行地の更なる復興に尽力しながら、毎月、葛城修行者の入峰をサポートしています。尚、定期的に入峰を欠かさない寺院には聖護院門跡、醍醐三宝院、青岸渡寺、金峰山寺に代表される多数の修験寺院があります。