七宝滝寺の歴史

開基

犬鳴山は、斎明天王の7年(西暦661年)、修験道の開祖である役小角が28歳の時に開基されました。大和の大峰山より6年早く開山されたので、元山上と呼ばれます。役行者の開山時に倶利伽羅大竜王出現し、これを本尊としたと伝えられています。また葛城峯中の奥の院とも呼ばれ、葛城二十八宿修験根本道場でもあります。役行者は当山で、国家安穏、五穀豊穣、緒人快楽の密法を修せらた。

犬鳴渓谷の七つの滝と寺号「七宝滝寺」の由来

淳和天皇(824〜834)の時、天下大早魃があり、そこで淳和天皇は諸国の霊山、神社仏閣に祈雨の祈願をさせ、当山でも住侶が本尊不動明王に祈雨の大法を 修しました。すると霊験空しからず、泉州一円は慈雨に恵まれることができました。そこで淳和天皇は、犬鳴山中にある著名な七瀑を金銀などの七宝に因んで、 七宝滝寺と命名しました。七瀑とは、両界の滝(金胎両部の滝として二瀑があり、これを合わせて両界の滝といいます。一の滝とも)、塔の滝、弁天の滝、布引 の滝、固津喜の滝、行者の滝、千手の滝、の七つで、今も尚千古の姿のままに飛沫を上げています。

さらに、弘法大師空海は、この七瀑に七福神を祭祀されました。このため山中の七滝は七福神・不動の霊瀑といわれ、一度この山を参詣すれば、七福神・不動明王の霊気を受け、福徳増進するといわれています。

山号「犬鳴山」の由来と義犬伝説

宇 多天皇(889〜898)の寛平二年(890年)三月、紀伊の猟師が犬を連れて、当山の行場「蛇腹」附近で一匹の鹿を追っていました。猟師の傍の大樹に大 蛇がいて、猟師を狙っていましたが、猟師はそれに気づかず弓をつがえ、鹿に狙いを定めて射ようとしたとき、猟師の犬は愛犬は急にけたたましく吠えだしまし た。犬の鳴声におどろいた鹿は逃げてしまい、獲物を失った猟師は怒って、腰の山刀で吠え続ける愛犬の首に切りつけました。犬は切られながらも大蛇めがけて 飛び上がり、大蛇の頭に噛みつき、猟師を助けて大蛇と共に倒れました。

事の意外さを知った猟師は、自分の命を救って死んだ愛犬の死骸をねんごろに葬り、弓を折って卒塔婆とし、そして七宝滝寺に入って僧となり、永く愛犬の菩提を弔いつつ、安らかに余生をすごしたと語り伝えられています。
この話を聞いた宇多天皇は「報恩の義犬よ」と賞し、「一乗鈴杵ヶ岳(一乗山、鈴杵ヶ岳とも)」を改め「犬鳴山」と勅号を与えたと伝えられています。

中興 - 南北朝時代

犬鳴山は役の行者の霊場ですが、同時に、紀伊、和泉、河内の連絡には要衝の地でした。このため、犬鳴山と南朝方とは特に密接な関係がありました。楠 木正成の一族(楠木正行、楠木正時、楠木正儀ら)の活動の中心は、山伏の勢力範囲と重なっており、笠置、吉野、粉河、犬鳴等は武家と山伏との混成部隊でし た。

正平十七年(1362年)南朝方の最後の主戦論者の中心武臣であった橋本正高は、志一上人を犬鳴山に招いて不動堂を修造し、伊勢房、東中院、西院、 滝本房、福寿院の六房を建立しました。これによって、志一上人による当山の中興がなされました。志一上人は学徳ともに優れた名僧でしたが、正高が志一上人 を犬鳴山へ招いた理由は、志一上人への深い帰依だけでなく、犬鳴山伏の一大勢力を頼ってのことでもありました。橋本正高と犬鳴山伏は良好な関係を継続し、 その後天授二年(1375年)八月には、当山法師願正上人に命じ、法華妙典一万部を修め国歌安穏の大修法をなさしめ(この時の祈祷供養板碑は本堂横手に現 存)、更に十四坊を建立しました。これで、前後合わせて二十の僧坊を固めることとなりました。

実に犬鳴山の山伏は、この要衝に翻居して、和泉、紀伊の連絡の鍵を握っていたのです。この犬鳴山の山伏の後楯によって、正高は天授四年(1378 年)十一月、十二月の寡兵で、細川氏春、細川頼元、山命義理の三万の大群を土丸城によって防いだのです。正高はこの戦いに敗れて紀伊に退きましたが、翌天 授五年(1379年)正月、再び紀伊から和泉に打って出て、土丸城を奮取してこれに拠りました。そしてさらに義兵を挙げますが敗れ、さらにその夏、山を越 えて和泉に打って出ました。これら数回の山越えに際し、犬鳴山がいかに力添えになったかは容易に想像できます。

室町時代

室町時代は熊野信仰と葛城修験道の隆盛にしたがって、当山もまた隆盛を極め、今もなお、山中至るところ当時の供養碑等が数多現存しています。関白内 大臣九条植通(1504〜1558)は、当山に参詣して「思いきや七の宝の滝に来て六つのにごりを清むべきかや」と詠むなど、貴顕公兜卿諸公も足を運んで います。

安土桃山時代

安土桃山時代には、戦国時代の群雄割拠のため、近畿の山野は至る処兵火に犯され名刹は何れも受難時代でした。織田信長も、自己の意のままにならな かったため、当山の寺領数百町歩を没収しました。天正十三年(1585年)には、豊臣秀吉の兵火に罹って本堂以下の諸堂悉く焼失しましたが、その後秀吉は 米麦を寄進すると共に滝本坊(現:宿坊)を再建、御供米として三十石を寄附しました。

江戸時代

江戸時代になると修験道の復興と併行して当山も隆盛となり、承応元年(1652〜1655)には観音堂を建立し万治年間(1658〜1661)には本堂修理、現在の本堂下石橋を架け、領主岡部行隆公は新田五反を寄進するなど、世人の信仰は集まってきました。

享保五年には本堂を再建し、佐野の豪商食野行康は石灯篭を寄進し、安然法師は寺記を編集するなど見るべきものが多くありました。寛政五年には岡部長 備公から石灯篭の寄進があり、また、岡部公歴代の位碑が納められました。江戸、大阪、堺、岸和田を始め大和紀州等の信者により石灯篭、道標の寄進があるこ とからも、その信仰の程度が想像できます。嘉永二年には、葛城修験道の現存せる唯一の文献であり、峯中記である「葛嶺雑記」が、当寺に於いて智航によって 執筆されました。

現代の犬鳴派

明治時代には廃仏毀釈と共に修験道が禁止され、寺観が著しく衰えましたが、明治後期には中興し、以後、大戦を経て復旧に努めてきました。昭和二十五 年八月七日には、往時の宗教体制に還り、新たに真言宗犬鳴派を公唱、葛城修験道の根本道場として修験道部を置くなど再興を見つつあります。

現在は寺域は十八万三千四百坪を有し、生命乞不動明王の霊場として多くの信仰を集めるとともに、葛城修験の入峯修行や山内行場での修行に力を入れており、大いに面目一新しつつあります。国内の霊山の なかでも元祖とされ、独自の進化をとげた犬鳴山。近年の研究では、役ノ行者尊の学術的な研鑽が進み、修験道の発祥霊山としての裏づけも公開さ れるに至っています。